イギリスでは孤独担当相が設置されたが日本では無縁社会が継続中/孤独な人は街の店にすら入ることができない
イギリスで孤独担当相が新設されたとのこと。英国で900万人が直面する「孤独」に対して国家として対策をしていくという決意の表れだろうと思います。
900万人というのは、かなりの数で、英国民の13.7%にあたる人数です。確かにこれだけの規模であるならば、何かしら対策を打つ必要があると判断したのもわかります。
なお、英国では、孤独による経済損失を約5兆円と見積もっており、日本でいうと日産自動車の時価総額とほぼ同じ。
つまり、日産自動車という会社をまるまる買えてしまうくらいの多額のお金です。東京スカイツリーなら125本も建設することができます。
具体的な政策というのは明らかにはされていませんが、超党派の有志でずっと取り組みについて議論を重ねてきたようです。
日本では孤独は国家の損失か
日本でも「無縁社会」がNHKで特集されたり、関係書籍も多く出版されたりして、社会から分断されてしまった人々が人知れず生活していることは、なんとなく知っているかもしれません。
しかし、会社や自営業として忙しく働いている人たちにとっては、どこかの別世界の出来事のように感じると思います。実際には「孤独な知人」の名前をあげることはできないのではないでしょうか。
そもそも孤独の人は社会との接点も少ないので、なかなか姿を確認することが難しいのです。
日本では、こうした無縁社会で生きている人や孤独に過ごしている人たちがどの程度存在して、どのような課題を抱えているかということについては、ほとんど知られていません。英国のように統計的データも存在しません。
よって、現状が不明なので、行政としても対策を立てることができないのでしょう。当然、国家としての損失金額も不明であり、ある意味、わからないままにしておいた方が都合が良いのかもしれません。
社会にリーチしない個性や才能が埋もれてしまうことが国家の損失
損失は不明だからと言って、損失がゼロと言ったら、そうではないと思います。
孤独な人たちは、なかなか社会に対してリーチすることもしないし、社会の側からもリーチされることがありません。
つまり、社会の中では、ほとんど存在しないかのような扱いになってしまうのです。その人がどんなに才能豊かな人であったり、すごい技術を持っていたとしても、それを役立てることができません。
今の時代のイノベーションは、ひとりの個人から発展したものが少なくありません。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグだって、ひとりでフェイスブックを立ち上げたわけですし、世界中で使われているパソコンの元祖と言われる「Apple I(アップル ワン)」も、アップル共同創業者のひとりであるスティーブ・ウォズニアックが独力で作りました。
こうしたイノベーターたちの才能が社会にリーチして、それが世界に広まっていったわけです。しかし、孤独の人たちは、そうした術(すべ)や力を持たないわけです。
孤独に厳しい日本の社会
しかしながら、日本で孤独が放置されているのは、孤独に対する厳しい見方が存在するからだとも考えられます。
「孤独なのは本人の自己責任」
「社会とつながれないのは、努力が足りないから」
「自分に甘いだけ。行動を起こせば孤独ではなくなる」
得てして、このような批判にさらされるため、孤独な人はより一層、社会から距離を置くようになります。もちろん、いろいろな事情や予期せぬ運命によって、やむを得ず孤独になってしまった人もいるかもしれません。しかし、それでも、孤独に優しい社会だとは言えないでしょう。
それに、特に都会に住んでいる人たちは忙しすぎます。自分自身のことで精一杯の人がほとんどなのです。他人のことなんか、かまっていられないという意識がさらに拍車をかけています。
ほとんどの人が「私が知っている孤独な人」を答えることができないのではないでしょうか。孤独な人のことなんて知らないのです。
孤独な人が見つからない
フェイスブックやインスタグラムといったSNSを眺めていても、そこにあるのは孤独ではなく、つながりを通じたあふれんばかりの幸せな形の数々です。孤独を感じさせるような投稿はほとんど見当たりません。
孤独の人たちからすれば、フェイスブックやインスタグラムには、幸せな人しかいないのではないか、と錯覚してしまうのではないでしょうか。
もちろん、明るく振舞っている人の中には、悲しい出来事に遭遇したり、アンラッキーなことが起きた人もいるかもしれません。でも、いろいろあっても「なんだかんだ言っても、幸せだよね」と納得できる人々でSNSは構成されています。
孤独な人は何に困っているのだろうか
はたして、本当に孤独な人は、どのようなことに困っているのでしょうか。
寂しさ
真っ先に思い浮かべるのは「精神的には寂しいのだろう」ということです。孤独の人たちは人間関係が極めて希薄なので、何日もコミュニケーションを取っていないというのは普通にあることです。
無縁社会というくらいですから、社会、つまり人々の集団からは取り残されたような気がするでしょうし、取り残されている、ということは、自分の存在意義にも疑問が出てくるはずです。
「いったい、自分はこのまま生活していても意味がないんじゃないか」とか「私はまったく何の役にも立っていない」という自己有用感の欠如とか。
そうした「絶望」にも似た気持ちを常に心のうちに持っていることが、一番のお困りごとだと思うわけです。
精神的な死
もう一つは、様々な感情を体験できずに「精神的な死」に近づいていくことです。精神的な死、というのは、喜怒哀楽がなくなって、ほとんど日常生活に潤いがなくなり、精神が枯渇していくことです。
ひとりでいると、あまり喜怒哀楽の振れ幅がなくなっていきます。ほとんどは「不快・不機嫌」という感情のゾーンにいますが、ずっとそのゾーンにいたまま一本調子なのです。
つまり、日常生活に楽しいことや嬉しいことがないので、感情が振動することがほとんどありません。精神的な表情がなくなっていき、やがて、顔の表情もなくなっていきます。なにも動かないという死に近い精神状況に移行していくわけです。
もちろん、こうした状況下では、経済的にも困窮していきますし、ますます気持ちは「不快なゾーン」に入ったまま、出てこれなくなるのです。
孤独な人は無意識に行動が制約されていく
実は、思った以上に人との繋がりのパワーというのは強力です。そのパワーが使えないとなると、無意識にも行動に制約ができてしまいます。
別に禁止されているわけでもないのに、ひとりで行うことを避けてしまうことはありませんか。
例えば、ひとりで焼肉屋に入って食事をする、とか、ひとりでディズニーランドに行く、とかです。
「ひとりでは入りづらい、行きづらい」というブレーキです。
これが二人以上だったら、
「あの新しいお店に入ってみない?」とか
「久々にディズニーランドにいこうよ」という感じで難なく行動できると思います。
これが行動を促す人間関係のパワーだと思いますし、つながりの心強さだと思います。
しかし、孤独な人は、このパワーが使えません。結果、カウンター席が見えない飲食店には入りませんし、なんとなく複数で行くところ、というイメージの強い焼肉屋さんやディズニーランドにも行かないでしょう。
こうした無意識のブレーキがさらなる孤独感を強めます。要するに、心理的にできないことが増えてしまうのです。
水面下にあふれる孤独な人たちはどのようにしたらよいのか
今は、「見守り訪問サービス」なんていうのが郵便局でもやっていますし、行政でも「見守り活動」のようなことに予算をつけている自治体もあります。
しかし、原則として、孤独な人は放置されているのが今の現状でもあります。
それでは、いったい、どうすればよいのでしょうか。
周囲からできることは「ひとりじゃない」を伝えること
英国での孤独担当相がどのような取り組みを行うのかは現時点ではわかりません。でも、孤独な人に対しては「決してひとりじゃないんだ」というメッセージを発して、そのことを届ける活動をするのだと考えています。
実際には「そんなキレイゴトを言われたって孤独は解消しない」と感じるかもしれません。
昔は、近所の同志のネットワークが強く、夕飯にあまったものがあれば、おすそ分けと言って、お互いの家を行き来する場面を多くみてきました。東京の団地でもそのようなことは頻繁にありました。
今でも、田舎の方では、地域のコミュニティが健在で、人々の直接の行き来は多いのかもしれません。
私も旅行でいろいろな島へ渡ってみると、地域のコミュニティが強力なことを肌で感じます。
「いくら田舎だって言っても、引きこもっていれば孤独は解消されないでしょ?」
「いや、引きこもっていたら、近所の人に引っ張り出されるよ。一緒に草取りしろ、とかね。だから孤独にはなれない」
・・・なんていう話をしたことを思い出します。
結局、昭和な時代や田舎のような雰囲気をシステムとして部分的に取り入れる、ということは実施できそうです。
孤独な人自身はどうしたらよいのでしょうか
孤独な人と言ってもいろいろです。自ら孤独を選んだ人もいれば、思いがけずに孤独になってしまって寂しい思いをしている人もいるでしょう。
問題なのは、希望せずに孤独に陥ってしまった人ですが、自ら孤独な状況を選んだ人もまったく問題がないわけではありません。先に書いたように、精神的な死に近づいたり、無意識に行動にブレーキがかかって活動が不活発になって行くからです。
情報をつかむ(コミュニティ)
対処法としては、社会に接続するための情報にアクセスすることです。いざとなったら相談できる行政窓口や民間サービスを知っておくことです。
それから、情報が得られる情報コミュニティに入っておくことです。こうした情報は、主にインターネットなどから得られることが多いです。よって、「情報を知るための情報」を、第三者は提供できるような体制が必要だと思います。
アナログ的にチラシを作って配ったり、見守り訪問中に優先順位の高い情報を与えていく、と言ったことでしょうか。
私は極めて孤独な人間ですが、私もセミナーなどで一緒に学んだ仲間や主催者とは、たとえそれほど仲良くなくても、細くつながりを保つようにしています。その人を通じてかろうじて社会につながっている感覚を持っておくためです。
孤独な人は、1人でも、ゆるいつながりを持っていれば、思わぬところで重要な情報にアクセスできることがあります。
孤独を味わう
孤独な状況にある人は「孤独を味わう」ことも重要でしょう。特に、自ら孤独を選んだ人は、味わいたいから一人になったとも言えるかもしれません。
いちばん孤独を味わえる手段は、ちょっとでも、自分の住居空間から離れてみることです。少し遠くまでの散歩や旅行、公園に季節を見に行く、などです。
孤独な人は少数派です。
普通に生活しているほとんどの人は多くの繋がりの中で生きているのです。
しかし、繋がりの輪から外れてしまっている場合には、その貴重な孤独の状況を味わうことができなければ、多くの時間が虚無に包まれてしまいます。
孤独を味わうということは、死に向かって一人で生きている自分を慈しむことです。まるで「余生」を過ごすかのように、ひとりの時間を慈しむのです。
さいごに
私がこういうことを書くのは、私自身が孤独だと思っているからです。
これは、会社で働いているときから孤独を感じていました。実際には、組織で仕事をしているわけですから、話もしますし、打ち合わせや議論もするので、孤独には映らないでしょう。
しかし、私は、ずっとどこの派閥にも属さず、ランチもいつも一人で食べていました。プライベートでもほとんど会社の人と会うことはありませんでした。
携帯電話を持ったのもここ数年ですし、いまだに一人の登録者もいません。ですから、誰もかけてくる人はいませんし、私も誰かに電話をすることがないのです。
家族もおらず、ひとりで静かに暮らしています。
私の場合は、昔から自分でひとりの状況を選択しているので、寂しいという感情はほとんど湧いてきません。
ただ、子供が多い地区に住んでいるので、公園には家族連れが多くいますし、飲食店に入っても、賑やかな空間ばかりが目立ちます。そんなときには、たまに、なんとなく切なさがこみ上げてくるときもあります。
しかし、最終的には、人はひとりだと思いますし、精神的な死に飲み込まれそうになっても、今はなんとか海面に首を出して外の空気を吸うことはできています。
それは、孤独を味わおうとする意識があるのと同時に、残された生を有意義にしたいと思っているからです。
激しい絶望とバラ色の希望の両方を抱えたまま生きています。
孤独で、なんの保証もないなかでもバラ色の希望を持てるのは、世の中が不確実だからです。
何が起こるかわからないという希望。わからない中には希望も含まれているのです。