詳しいプロフィール
私のプロフィールの詳細版です。長文ですが、お時間がある方はぜひお読みください。
就職するまで
私は、大学の法学部に在学している間に「大学4年間のうちに、きっと自分のやりたいことが見つかるだろう」と思っていました。
しかし、時はどんどん過ぎていき、あっという間に就職活動の時期を迎えます。
漫然と「誰かの役に立つ仕事がしたい」とは思っていましたが、どんな仕事をしても、誰かの役には立っているのですから、役に立ちたいというだけで、自分のやりたいことが明確になったわけではありせん。
急かされるように、就職活動をしなければならなくなりました。当時は、就職氷河期と呼ばれる時代でした。
時間は待ってくれないので、周囲と同じように企業に資料請求をしたり、OB訪問をしたりしていました。
でも、普通に会社に勤める未来にどうしても希望が持てずに、モヤモヤした気持ちを抱えたまま、就職活動をしていました。
結局、周囲の人からはだいぶ遅れて、ようやく1社から内定をもらいました。その後、大手メーカーの最終面接で入社意思を確認されましたが、海外赴任が入社条件だったので、踏ん切りがつかなかった私は、正直にすでに内定をいただいている会社があることを打ち明けてしまいました。すると、内定の連絡があった1時間後に「やっぱり内定を取り消す」という電話が入ったことがありました。
こうして選択の余地がなくなった私は、内定していた1社に入社するしかありませんでした。
大学卒業までは、まだ半年ありましたが、なんとなく「つまらない人生が確定」みたいな気持ちになり、就職先が見つかって、ありがたいことであるにも関わらず、将来を悲観していたことを思い出します。
会社員時代
最初はガテン系
入社してからすぐの仕事は、朝からずっと肉体労働でした。フォークリフトに乗って荷物を運んだり倉庫で仕分けをしたりする仕事です。私はフォークリフトの運転もままならず、荷扱いも下手すぎたので、先輩や運転手の人にはよく怒られていました。ガテン系の現場仕事なので、安全第一。だから、今思えば、事故にならないように、いろいろと気にかけてくれていたのかもしれません。
その後、何年かして、東京に転勤になり、「どうしたら現場をもっと効率的に回していくことができるだろうか」ということを考える業務改善の仕事を始めます。
現場では、先輩から教わっていた通りに作業をしていたのですが、東京の職場では「もっといい方法はないのか」と考えることが求められるようになりました。
コンプレックスに泣いた会社生活
私が働いていた職場は、給与は高いほうではありませんしたが、福利厚生も充実しており、どちらかというとホワイト企業だったと思います。そのため先輩や同僚は、有給休暇の消化率も高く、定時で帰宅する社員も少なくありませんでした。
しかし、私は仕事の要領も悪かったので、脱落せずに会社で生きていくには、人一倍仕事をして、さらに自分を会社文化に適応させていく必要がありました。
・有給休暇はほとんどとらない
・自主的に休日出勤
・体調が悪くても根性で会社に行く
・上司に飲み会に誘われれば、ほぼすべて参加する
・社員旅行や野球大会などの会社行事もすべて参加
・他の人がやりたくないような面倒な仕事も「私がやります」と引き受ける
・毎日残業。(最後の戸締りも)
・他の社員の愚痴をひたすら聴く
…etc
まさに社畜のような社員でしたが、これで、ようやく人並みレベルになった、という感じでした。
すぐに仕事を覚えられる人が不思議だった
転職や派遣社員で会社に入ってくる人を見ると、「どうして、あの人たちは、新しい仕事をすぐに覚えて、一人前に仕事をすることができるのだろう」…と、ずっと不思議に思っていました。
特に、派遣社員の方は、職場にやってきて数日で仕事を覚えて、ひとりで会計の端末を操作していたりします。「どうして、すぐに仕事ができるようになろうのだろう。みんな天才なのか!?」と感じていました。新しい職場にもすぐに馴染んで、業務をそつなくこなせる人々がすごい、と思っていたのです。
それに引き換え、私は相変わらず要領が悪いままです。新しい仕事がすぐに覚えられません。だから、人の3倍くらいかけてようやく埋め合わせができる、という状態だったのです。
これが会社の中でのコンプレックスでした。
コミュ障に悩んで孤独な日々
そして、もうひとつのコンプレックスが、コミュニケーションが下手すぎたことです。
もしかしたら、要領が悪かったり仕事覚えが良くないのは、このせいではないか、とも思うようになりました。とにかく、周囲の先輩や同僚は、すぐに仲間を作って楽しそうに過ごしていましたが、私は、人と仲良くすることがなかなかできずにいました。
だから、会社の懇親会などでは、いつもポツンと一人で黙って座っているだけで、「早く終わらないかなぁ」とずっと時間を気にしているような状態でした。
要するに、集団の中の孤独状態です。
ひとりは楽ですが、衆人環視の中の孤独は地獄です。
だから、集団を離れるために、会社でのランチもいつも一人でしたし、旅行もずっと一人で旅していました。
ただ、そうした環境に埋没していきながらも、「ずっと、このままでよいのだろうか…」というのは、頭から離れることはありませんでした。
でも、「ずっとこのまま」でないと、私は生きていける自信はありませんでした。
そのはざまで苦しんでいたのだと思います。
こうしたなかでも、一生懸命に社畜になりきること10年。
「ずっとこのままでよいのだろうか」というのは、まだ頭の中に居座っていました。
そこで、私はひとつの行動に出ます。
それは、会社員をしながら、他の道をサブで作っていく、ということです。
これなら自分にもうひとつの世界を作って行くことができる、と思ったのです。
まずは、コミュニケーションを改善したほうがよいだろう、ということで、心理学の学校に通うことにしました。
心理学との出会い
コミュニケーションを改善したいと通い始めた心理学の学校ですが、グループ討議などで自分から話をしなければならない場面が数多くあり、けっこう緊張していました。でも、心理学の勉強って楽しいな、と思ったのも事実です。
ひとくちに心理学といっても、
・フロイトやユングに代表される集合無意識などを研究する深層心理学
・刺激に対する人間の行動に着目した行動心理学
・人間の心にフォーカスした人間性中心心理学
・意識を超えた領域を研究するトランスパーソナル心理学
…など、いろいろな種類があることを知りました。
このときに、「いったい人の心とは何なのか」ということを探求し始めます。
やがて、その探求は、自分自身に向いていきます。「自分とは一体なんなのか」ということです。
そして、心理学の学校を卒業後、さらに深く学ぶために、他の心理学スクールにも通い、さまざまな角度から人間の特性や潜在能力を考察する分析学を学びます。
そこで、自分の行動パターンから自分自身の特徴や人間性、バイオリズムを知ることになり、自分の将来をどうしていくべきかを考えるようになりました。
調香師の修行
ちょうどその頃、自分を表現する手段として「香りの学校」に通っていました。自分自身は絵を描いたり音楽を奏でたりすることができず、なんら特別な技術を持っているわけでもありませんでした。
そのような時に、コニュミケーションの延長線上で、何かを表現したいと思って選んだのが香りのデザインでした。
香りは目に見えない素材であるので、嗅覚に訴えるデザインに新鮮味を感じたとともに、静かに香りに向き合う時間を過ごしている教室を見て「これは自分にもできるのではないか。ひとりでもやれるものだし」と感じました。
そこで、イメージを香りで表現するフレグランスデザインの修行を始めたのです。
たくさんの香りを覚えて、その覚えた香りを使って、他の香りを創造する、ということを繰り返して行くのです。
しかし、先生に教わったのは、香りをデザインするための技術だけではありませんでした。
オリジナルの香りを作るためには、自分が思い描いたイメージにぴったりの香料を選ばなくてはなりません。イメージに合う香料を選んで調合し、思い描いた通りの香りができれば、自分が思ったことを忠実に実現したことになります。
先生が常々おっしゃっていたことがあります。
「香りを創ることは、夢を実現するための訓練をしているようなもの。心で思うことは実現する。だから何を思うかが重要なのです」
そして
「美しさをセレクトできる自分になりなさい。そのために学ぶのです」
…と、常に選べる自分であるならば、美しい歴史を創って行くことになる、ということも教えてくださいました。
先生はご高齢のため、亡くなってしまい、私が最後の生徒になってしまいましたが、デザイン技術にとどまらず、大切なことを直接教わることができた貴重な時間でした。
パラレルキャリア
そうして、心理学や香りのデザインを中心に会社以外の時間は、ほとんどすべて私自身に対する学びに使っていました。
他にも、単発のセミナーなどに参加したりして、一時期、セミナー貧乏のような感じになってしまいました。自己投資額は高級車1台分以上になったと思います。
しかし、だからと言って、コミュニケーション能力が飛躍的に向上して自信満々の自分に変わったのか、と言われればそうでもなく、相変わらず、ひとりぼっちの社畜生活は続いていました。
ただ、会社と家の往復だけで何もしていなかった時代と比べると、充実感はありました。
3.11/東日本大震災
そんなある日。東京に強い揺れを感じました。2011年3月11日の東日本大震災です。
この震災が、自分の人生のことを真剣に考えるきっかけとなります。
実は、以前勤めていた会社は原発関連の企業でした。そのようなわけで、この日を境に取り巻く環境が一気に変化します。
震災以降は緊急時なので、会社は24時間体制。私も朝8時から翌朝8時までの24時間働き、それから帰宅して一睡した後、また翌朝の8時から24時間勤務する、という状況が続きました。
極度の緊張と疲労の中を、怒号が飛び交う異常な職場環境の中で働いていました。
このような激務が続く中、会社の若手社員も、ひとりまた一人と会社を去っていきました。
震災前のように、自分たちの仕事を周囲に明かすこともできなくなり、苦しい思いをした若手社員も多くいました。
私自身も社外研修などで、他の会社の人から「俺は、ぜったい福島の原発を許さない!」と席に詰め寄られたこともあります。
この年は、虚無な心の状態のまま、がむしゃらに仕事をしていたので、自分のことなんか振り返っている暇はありませんでした。
しかし、ふと、ここでも頭の隅にあったものが浮上することがありました。「自分は本当にこのままで良いのだろうか」と。
そして、震災から数年後
私の身体に異変が生じてきました。64キロあった体重が半年もしないうちに48キロまで激減したのです。
身体に力が入らなくなり、うつろな状態が続きました。ただ、それでも気力はあったので、相変わらず夜遅くまで仕事はしていました。
ただ、どんどん消耗していく体力を見て「これはガンなどの悪い病気なのではないか」と感じるようになりました。精密検査を受けたところ、循環器系の異常は見つかりましたが、ガンではありませんでした。
私のやせ細って行く姿や、ネガティブな言動が多くなった状態を見ていた上司からは、精神科の受診を勧められ、そこで初めてうつの診断が下されます。
どうやら、精神疾患を患うと、身体にも影響が出ることが多いのだそうです。
身体に力が入らないとはいえ、社畜精神で根性で仕事をすることはできました。
しかし、ミスや判断の誤りが目立つようになり、会社の勧めもあって、しばらく休養をとることになりました。有給休暇もほとんど取得せずにきた会社人生の中で、初めての休養でした。
そして、この休養の中でも「自分は本当にこのままでいいのだろうか」と悩みます。
もう、10年以上も自分に問うてきた課題です。
しかし、「このまま」でいなければ、自分は生きて行くことができない、他の人のような優秀さは自分にはない、と感じていました。
例えば、会社を辞めることは、自分にとっては死を意味しました。転職全盛の今の世の中では大げさかもしれませんが、自分は他の仕事をするだけの能力も実力もない、という思考に支配されていたのです。
ステージを変える
休養中も会社側はいろいろと心配してくれました。なんとか元気になって会社に戻ってきてほしいと考えていたようです。
しかし、精神的にも、こんな弱い状態になってしまい、今までずっと会社のために身を粉にしてやってきた自分からすると、「自分はキズモノになってしまった、もう会社には戻れない・・・」というネガティブな感情が支配していました。
戻るに戻れないし、戻れなければ生活が行き詰まって死ぬし…という救いようのない状況でした。私が強い人間であれば、「転職でも、アルバイトでも何でもして絶対に頑張る!」と奮起することもできたのでしょうが、要領の悪い自分としては、そうしたことすらできずに、自分の無価値を嘆きました。
しかし、休養して行くうちに、「こうなってしまった以上、自分のステージを変えても良いのではないか?」と思うようにもなりました。
それは、会社で過ごしている時に、漫然と頭の中にあった「本当にこのままでよいのだろうか」という問いに、自ら答える時が来たのかもしれない、という思いでした。
「今まで、心理学の勉強やフレグランスデザインなど、なんのためにやって来たのだろう。これらを人生の中でお蔵入りしてしまうのは、やっぱりもったいないのではないか」と思うようになりました。
結局、今まで通り会社で仕事をしていても、このままでは後悔する、と感じたのです。
「やった後悔よりもやらなかった後悔のほうが、強烈な悔いになる」というのは、人生の最期に死を目前に控えた人々が口にする言葉だそうです。
新卒からずっと同じ会社で働いてきた私からすれば、会社の外に出るのはものすごく恐怖でした。
しかし、今までは、その恐怖におののいて一歩も踏み出せなかったのに、
「もういいじゃないか。会社では十分やった。もし、新しいステージで自分が生きていけなければ、それは自分の努力不足だし、完全に自己責任だ。この地球で、自分の役割は終わったということだろう。そうなったら、全てを受け入れよう」
…という、覚悟というほどではありませんでしたが、穏やかな開き直りがありました。
そのようなわけで、会社を退職することにしたのです。
退職することは一部の人しか知らないようでした。
ですから、会社の最終日は、驚いた人が多かったと聞いています。
中には、帰宅する私のうしろを、泣きながら追いかけてくる社員もいました。
また、今までほとんど話したことのない人からの電話もありました。
「今日は、勇気をもって電話をしました。私は、あなたがいたから、今までやってこれたんです。入社してからこんなに残念なことはありません!」
「残念だよ…」と一言だけ言って涙をこらえて去っていった同僚もいました。
私は、ずっとひとりぼっちだと思っていましたが、実際にはそうではありませんでした。
そんなことも、最後になるまでわからなかったのです。
現在は、荒野の中で一人立っている、という感じではありますが、気持ちはとても穏やかです。
私は会社生活では、つらいことのほうが多い日々ではありましたが、他から見れば、順調に出世したほうだと言われますし、激しいパワハラを受けることもあまりなかったほうだと思います。
そうした意味では、社畜のような生活であっても、恵まれた会社人生だったのかもしれません。
ただ、会社の中では、他人に抑圧されたり、雰囲気に抑圧されたりと、理不尽さに耐え忍んでいる人も大勢見てきました。
会社では、ほとんど個性を発揮して自分らしく振る舞うことは推奨されません。
私よりも才能もスキルもあるのに、まったく活かすことができずに、悶々としている人もいました。
せっかく、みんなそれぞれ個性を持ったひとりひとりなのですから、自分らしさを発揮しながら生活できる社会になったら、どんなに素晴らしいだろうと思います。
わたしが今世の役割をいつ終えるのかは、まったくわかりません。
でも、心理学や香りのデザイン、そして、会社生活で体験したことや学んだことについては、まだ生かされている間に、地球に置いていこうと思っています。
そして、どうしたら他の人や社会に役立てることができるだろうか、ということを考えながら、形にしていく努力を続けていきたいと思います。
現在の活動
2018年現在で行なっている活動を記載しています。
プロファイル分析
本人に生まれつき備わっている人間性や特性、才能を明らかにするプロファイル分析診断を提供しています。3億9千億通りの中から本人に該当するパターンを取り出して、積極的に行動すべきタイミングや、チーム結成、人材採用にあたっての相性の分析も行い、効果的な組織づくりなどにも活用していただいております。
調香師
香りのデザインを通じて個性を引き出すサポートをしています。経営者や会社員、自営業の方にも、自分自身の香りを体験していただき、今まで気づかなかった個性を発見することができた、と喜ばれています。
2017年には、スティーブ・ジョブズとともにアップルを立ち上げた共同創業者のスティーブ・ウォズニアックさんにも、本人の雰囲気を香りにしたフレグランスをプレゼントしました。
業務改善支援
在職中の仕事であった物流技術改善士の資格を活かして、企業の業務改善支援を行なっています。
瞑想会
たまーに、少人数での瞑想会を開催しています。30分間の瞑想も「あっという間だった!」「頭がスッキリした!」と好評でした。また、瞑想後の日常で「こんな偶然の一致がありました!」と、わざわざレポートを送ってくれる方々もいて、私の方が効果の再現性に驚いていたほどです。そのようなわけで、またどこかでやろうと考えています。
プライベート
私のプライベートの一コマです。順不同で書いています。
ひとり旅
日本国内の有人島には50島以上、訪れています。ユースホステルにも200泊以上していたバックパッカーでした。なるべくガイドブックに載っていない地域を歩くのが好きです。
カメラ
一眼レフカメラで写真を撮っています。仕事をしながらも、夜間や休日を利用して写真学校に2年間通っていました。旅をする時に風景スナップを撮ることが多いですが、人物を自然体で撮ることも好きです。
新宿御苑
新海誠監督のアニメ「言の葉の庭」に影響されて、舞台となった東京都の新宿御苑には何度も足を運んでいることから、いろいろ詳しいです。
読書
1000冊くらいある本を少しずつ断捨離しています。最終的には100冊未満に抑えたいと感じている今日この頃です。そう思いながら、1週間に2日は書店巡りをするので、その時についつい書籍を買ってしまうのが密かな悩み。
音楽
MISIAとドリカムをよく聞いていました。ライブにも20回以上行っていましたが、震災以降はなぜか参加しなくなってしまいました。(嫌いになったわけではありません)
神社巡り
旅先で神社を見つけると、ついつい鳥居をくぐってお参りしてしまいます。お賽銭だけで1年間で数千円は使ってしまう神社好き。
瞑想
朝晩2回、毎日必ず瞑想をしています。疲れも取れますし、日常生活の場面で偶然の一致がたくさん起きるので面白いです。