裏切られる側のほうでよかったと思えること/君たちはどう生きるか
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宮崎駿監督の次回作のテーマになったということで、最近脚光を浴びている吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を読んでみました。学校で学ぶ道徳の教科書みたいな雰囲気の本ですが、その中で印象に残った場面がありました。
それは、主人公のコペル君が仲の良い友人を裏切ってしまう場面です。
吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」
中学校に通うコペル君は、親友が上級生に狙われているということを知ります。もし、上級生から因縁をつけられて、殴られるようなことがあれば、友達みんなで対抗する、と約束していました。
しかし、ある雪の日。
ついに親友が上級生から殴られてしまいます。その場にいた他の友達はコペル君の親友をかばって上級生の前に出て対抗します。でも、すぐ近くにいたコペル君は、上級生の前に出ることができず、親友が殴られているのを見ているだけでした。
他の友人は一緒になってかばっているのに、コペル君は傍観者のまま。
「上級生に殴られるようなことがあれば、友達みんなで対抗する」という親友との約束を果たせませんでした。
この事件の後、コペル君は自分を責めます。
「約束を守れなかった自分は卑怯者だ」と。
そして、寝込んで何日も学校に行けなくなるほど、苦しみ、落ち込んでしまうのです。
親友を裏切ってしまったことへの自責の念です。
裏切られた時にどう思ったか
実は、つい最近、同じようなことが私の身にも起こりました。
とはいえ、裏切ってしまうほうではなく、逆に裏切られた側です。
ここに書くほど重大な事柄ではないのですが、「君たちはどう生きるか」を読んだ後だったので、とても考えさせられる出来事でした。
待ち人現れず
私は、ある地方都市のプロジェクトを支援していました。結構な額の寄付をしたり、広報活動や制作のお手伝いもしていました。そして、これは全部ボランティアでやっていました。
そんなある日、そのプロジェクトのリーダーが「近いうちに東京に行くので、ぜひお会いしてお礼が言いたい。関連イベントがあるので一緒に行きませんか?」とメールでお誘いを受けました。
私は当日の予定を空けておき、プロジェクトの進展に寄与するような、いい話も用意してイベント当日を待ちました。
ところが、イベントの直前になっても連絡がなく、「どこへ何時に待ち合わせするのか」ということも決まっていませんでした。
二度ほどメールで催促すると、ようやく前日の夜中にメールが来て、会場の近くの駅に朝9時に待ち合わせすることになりました。
メールが来て8時間後には駅に集合、ということなので、「ずいぶん直前の決定だなぁ。いろいろ忙しいのかな」なんて思いながらも、翌朝に指定された待ち合わせ場所に出向きました。
しかし、待ち合わせ時間を過ぎても、現れません。
「指定の場所に到着しましたが、どちらにいらっしゃいますか?」などとメールをしたり、電話をかけたりしましたが、電話は発信音が鳴るだけで連絡が取れず、メールの返信もありませんでした。
行き違いになるとまずいと考えたので、1時間以上、その場所で待っていましたが、ついに姿を見せることはありませんでした。
仕方がないので、一人でイベント会場に向かいましたが、待ち人が現れないというショックで、イベントを楽しむことができず、お昼過ぎに帰宅することに・・・。
なぜか怒りの感情はゼロ
ところが、こうしたことがあっても、なぜか怒りの感情は湧きませんでした。もちろん、ショックを受けたのは確かですが、怒りはほぼゼロといった感じでした。
それよりも、「何か事件に巻き込まれてしまったのではないか」ということが頭をよぎり、とても心配な気持ちで時間を過ごしていたという感じです。
イベント会場で、プロジェクトのリーダーを知る人物に偶然出会うことができて、今回の出来事を話してみました。すると、その人も、夕食を一緒に食べる約束をしていたけれど、前日にキャンセルの電話があったとのこと。
でも、キャンセルの連絡があったのであれば、まだ納得です。
まったく連絡がないというのは「おかしい」ということで、その人からも、後日、プロジェクトのリーダーに電話してくれるということになりました。
私は「理由は何も聞かないので、無事を知らせる連絡だけ欲しい」とメールをしました。
その後、数日経っても、特に連絡はありませんでした。
しかし、半月ほど経ったある日のこと。
「ごめんなさい!」
…と、メールが来ました。理由はなく短い謝罪の文面でした。
「理由は何も聞かないから・・・」と言ったので、理由は書かなかったのかもしれませんが、とにかく無事でいてくれたということで、ホッとしたのを覚えています。
自分に絶望したりしてはいけない
さて、「君たちはどう生きるか」で、親友を裏切ってしまったコペル君は、苦しみがたたったのか、高熱を出してしまい翌日から学校を休んでしまいます。
そして、その苦しみを日頃から信頼を寄せているおじさんに話します。
「僕、どうしたらいいんだろう」
すると、おじさんは晴れ晴れとした表情で答えます。
「そんなこと、何も考えるまでもないじゃないか。いま、すぐ手紙を書きたまえ。手紙を書いて北見君にあやまってしまうんだ。いつまでもそれを心の中に持ち越してるもんじゃないよ」
コペル君は長い手紙を書いて、女中に届けさせます。
そのとき、ようやくコペル君も張り詰めていたものが緩んで行くのを感じます。
でも、親友からの返事が来ずに、ずっと気を揉んでいるコペル君でした。
半月ぶりに親友がお見舞いにコペル君の家に訪れて、最終的には、親友の北見君は「あまり気にしていなかった」ということを知って元どおりの関係に戻っていきます。
結果としては「よかった、よかった」という結末になるのですが、肝心なことは別にあります。
人は誰しも「あのとき、こうすればよかった・・・」「取り返しのつかないことをしてしまった・・・」と後悔することはいくつもあると思います。
しかし、コペル君のお母さんは、このように言います。
その事だけを考えれば、そりゃあ取り返しがつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあなんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。(中略)
だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ
(引用:君たちはどう生きるか/264p)
裏切られることでわかったこと
今回、私が体験したことは、簡単に言えば、「約束をすっぽかされた」というだけであり、わざわざ話すような事柄ではないのかも知れません。
ただ、このとき、まず思ったのは、
「逆の立場でなくてよかった」
ということでした。
もし、私が裏切る方の立場だったら、尋常な精神状態ではいられないと思ったからです。
逆にいうと、それだけ神経が細過ぎるのかもしれません。
だから、「裏切ったほうのあの人は大丈夫かな…」なんて心配してしまったほどです。
それから、もうひとつは、「怒りの感情が湧いて来なかったこと」でした。
今までは、無意識にでも「こういうことされたら、怒るよなぁ」と感じていたのですが、実際には怒ることはありませんでした。
これは自分でも静かにびっくりしていて、良いことなのか悪いことなのかわかりませんが、どうやら怒りの感情が出にくい体質になって来たようです。
会社で仕事をしていた時には、「怒りを押さえ込んで怒らないようにしていた」という感じだったのですが、抑え込む必要もなくなりました。
そのようなことを確認できたのは、私にとっての一つの収穫でした。
裏切りの現場ではどのように振る舞うべきか
それでは、自分が裏切ってしまった時や、反対に裏切られてしまった場合には、どうすればよいのでしょうか。
裏切ってしまったとき
人を裏切ってしまった時には、とにかく気持ちを正直にアウトプットして誠実に謝罪することです。「非常に言いづらい」という気持ちはわかります。できれば、自然消滅を狙ってフェードアウトしたいと考えるでしょう。
しかし、自然消滅を図れば、裏切った人との関係は自然消滅するかも知れませんが、裏切りの事実は心の裏にずっと残って行くのです。それは、生きている限りふとした時に思い出され、ボディブローのように体力を消耗していきます。
それは、私も経験があるのでわかります。10年以上経った今でも、心を傷める思い出があり、ずっと苦しんでいます。
だから、なるべく早くアウトプットしてしまうことです。裏切りの事実は変わりなくても、「やるだけのことはやった」という行動が、のちのちの気持ちの救いになるのです。
裏切られてしまったとき
裏切られてしまった時には、その執着を早く手放してしまうことです。忘却の力に頼るのです。
アップル共同創業者のスティーブ・ウォズニアックさんも、
「嫌なことはすぐに忘れることです。文句を言ったり、誰かを責めたり、非難したりすることに時間を費やさないでください」
と先日の来日講演で言っています。
不機嫌な世界に、ずっと自分の身を置いておかないということですね。
さいごに/「人に愛がある限り戦争はなくならない」
約束をすっぽかされてしまった私は「無事でよかった」というメッセージを送りました。
半月のあいだ、ずっと心配していたことが解消されたのです。
相手のメールは、まるでツイッターのように短いものでした。コペル君のように長い手紙を書いてくれたわけではありません。
でも、自然消滅を図ろうとせずに、なんとかアウトプットして来たことについては、ホッとしたとともに嬉しくもありました。これまでもいろいろと支援して来たので、相手は逃げられないという打算があったのかもしれませんが、それでも、心配が氷解されました。
相手もアウトプットすることで、希望をつないだのです。
こうしたこと言うと、「お人よしすぎるよ!」とか「怒る時に怒っておかないと、相手につけあがる隙を与えちゃうよ!」という人も多いのですが、私自身としては、気持ちの平穏を確認できた出来事でした。
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「人に愛がある限り戦争はなくならない」と言った人がいました。
「人を愛する、という感情があるからこそ、大切な人を傷つけられたら、その相手に激しい憎悪を抱くのだ。だから、愛がある限り戦争は無くならない」
・・・そうだとすると、「自分が怒らないのは愛がないのでは??」と考えたりして、複雑な気持ちも確認できたのも事実です。怒りも含めて感情を受け入れるのか、怒りの感情はないほうが平和なのか。
感情への向き合いかたへの旅路は、まだまだ続きそうです。